Copyright 2003 by the Chemical Society of Japan (2003.10.29 掲載)
両化学会の合同と発展
第二次世界大戦に突入し、戦局が進むにつれ、会員の中から応召される人が増えてきました。応召会員には会費免除の処置をとりましたが、一方、会誌に戦死者の名がのることも多くなっていきました。終戦になり会員の名簿を整理したとき、連絡がとれず名簿からはずした人の数は両学会あわせて、全体の1/3にあたる7,000名に上りました。
学会活動は、昭和21年(1946)のはじめ頃から再開しました。昭和22年(1947)は、化学工業会の創立50周年に当たりましたが、旅行の困難さのために、記念年会は、東京と京都で分けて行わざるをえませんでした。
敗戦は、両学会、特に日本化学会の財政事情を悪化させていましたが、それよりも、「化学と化学工業の関係」に関する本質的な議論が昭和21年(1946)頃からなされるようになりました。共に大阪大学の教員であった千谷利三、赤堀四郎(日本化学会側)、香坂要三郎(工業化学会側)の話し合いが出発となり、それは両学会を育ててきた他の地区の人達にも理解され、昭和21年(1946)11月に東京で第1回の合同会議が開かれました。そして翌22年(1947)10月と11月に両学会はそれぞれ臨時総会を開いて合併を決議します。そして昭和23年(1948)1月から新しい日本化学会が発足しました。初代会長には石川一郎が就きました。
その後、下図に見るごとく、戦後の復興と人々の化学と化学産業の振興に向けた努力に支えられ順調に会員数を増やしてきました。
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また、産業の復興と学術の進展に伴い、多くの独立した学会が誕生しました。例えば、昭和26年(1951)には高分子学会が、翌27年(1952)には日本分析化学会が創立されました。
昭和28年(1953)には、日本化学会が創立75周年を迎え、当時の石油化学の世界的権威者である米国のエゴロフ博士(Gustav Egloff)、レッペ合成で知られる西独のレッペ博士(Walter J. Reppe)、有機化学の泰斗英国のロビンソン博士(Robert Robinson)を招いて盛大な式典を行いました。
昭和35年(1960)には、化学関連の図書、雑誌を集めて化学図書館を開設しました。この図書館は、各大学の図書の充実によって利用者が減少したため昨年閉館しましたが、それまで化学関係者のための貴重な情報ソースとして機能してきました。
戦後の教育制度の全面的改革を受け、化学教育の内容や教授法について、学者と教育者・現場教員が共同で研究する場として、昭和26年(1951)に化学教育委員会が発足しました。これは、研究会、シンポジウムの開催などを通じで輪を広げ、昭和50年(1975)には化学教育部会となり、独自の会員を擁するに至りました、これが今日の教育会員です。これは平成10年(1998)に化学教育協議会となり、理科の初中等教育の改善、化学の普及促進のために多彩な活動を展開しています。
昭和53年(1978)には、日本化学会が創立100周年を迎え盛大な祝賀式典を執り行うとともに、記念事業として「日本の化学百年史」(東京化学同人)、「日本の化学」(化学同人)」を出版しました。また、100周年を記念してアメリカ化学会と合同してハワイのホノルルで国際学会を開催しました。これがきっかけで環太平洋国際化学会議が5年に一度ずつ開催されるようになり、現在に至っています。
昭和56年(1981)には、本会会員の京都大学福井謙一博士が、日本人として始めてノーベル化学賞を受賞しました。
平成3年(1991)には、個人会員、法人会員の寄付により、お茶の水にあった旧会館を建てかえ、7階建て、延床面積3,270平方メートルの化学会館が竣工しました。
平成12年から14年かけて、東京工業大学名誉教授白川英樹博士、名古屋大学野依良治博士、島津製作所田中耕一氏が3年連続してノーベル化学賞を受賞するという快挙がありました。日本化学会は、会員のノーベル賞受賞を寿ぎ、永くその栄誉を称えるために、白川博士の受賞を期に、化学会館1階のロビーに顕彰プレートを掲げました。
平成15年(2003)、日本化学会は創立125周年を迎え3月の年会にあわせて、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、盛大な祝賀式典を挙行しました。また、記念出版、記念講演会など多彩な行事を行うとともに、その年を「化学の年」として全国各地で化学の普及事業が活発に展開されました。