Copyright 2003 by the Chemical Society of Japan (2003.10.29 掲載)

日本化学会の設立

 日本化学会の前身、化学会は東京大学設立の翌明治11年(1878)東京大学理学部化学科の卒業生および在学生約25名で結成されました。化学会の結成としては、アメリカに2年遅れて世界で6番目でした。初代会長は、久原躬弦でした。右の写真が久原躬弦です。また、国内でも前年、日本数学会の前身にあたる東京数学会社ができたばかりでした。
 化学会は、翌年、東京化学会と名を改め、さらに次の年、わが国最初の化学雑誌、「東京化学会誌」の発行を開始しました。これがごく最近まで発行を続けた和文の論文誌「日本化学会誌」の前身であります。
 約25人で出発した化学会は10年後には、100名を越え、わが国における化学の振興と化学産業の発展に伴い会員数は着実に増加しました。そして東京大学理学部の教官、卒業生を中心として運営されていたものから、徐々に会員の分布が広がり、大正10年(1921)には名称を日本化学会と改めました。このとき会員は1,050人を数えております。
 しかしながら、わが国に学問としての化学が根付く過程は、その後も決して平坦なものではありませんでした。例えば、創立5年目から7年目にかけて会長を務めた桜井錠二は早くからドルトンの原子論を信奉し、わが国における純正化学教育の重要性を主張してきましたが、化学を分析や調合など経験に基づく実学と捉えていた多くの会員から、空理空論の輩と非難され明治19年(1886)に会長職を追われるという事件がおきております。また、同じ時期に、化学会の名前をより実学のイメージの強かった舎密学会に改めようという動議が出され、賛成が反対を上回りましたが2/3には足りず、かろうじて否決されるという一件が起こっております。しかしながら、化学の応用が広がり高度化するに従い、理論の正しい理解なくしては、応用も先に進めないことが徐々に認識されていきます。そして、桜井は明治36年(1903)になり実に18年ぶりに化学会の会長に再選されています。
大正14年(1925)、池田菊苗の還暦祝賀記念に際して醵金された資金が日本化学会に寄付され、これを元に現在の英文論文誌「Bulletin of the Chemical Society of Japan」が大正15年(1926)に創刊されました。これは今日なお、わが国を代表する化学分野の総合論文誌であります。
日本化学会は、昭和16年(1941)社団法人としての認可を受けて活動を続けました。  明治40年(1907)桜井錠二は在職25年記念祝賀会に有志から寄せられた基金を会に寄付し、これを基に優れた研究者に桜井褒章を贈ることになりました。これが今日の日本化学会賞の始まりです。また、また、昭和11年、真島利行の還暦祝いに寄せられた醵金を基に真島褒章が設けられました。第1回の受賞者は、わが国最初の女性化学者黒田チカです。